2017/05/06

ヤビツ峠のような問題をマナーの問題とするのはどうして損なのか

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非常に既視感がある、というか、日本中で何度も繰り返されている話のように思います。
関係して、以前こんな記事を書きました。
外国人の観光客を誘致することと「外国人のマナーが悪い」ということの関係
http://aminocyclo.blogspot.co.uk/2016/05/publiccensure.html 

何か問題が生じた時に、その原因として、典型的にマナーと称される何かが「悪い」人を見つけて、そういう人に対して啓蒙、教育、場合によっては非難といった方法を用いて排除し、それをもって問題を解決しようとする。

こんなアプローチは、かなり直感的な反応として、国や社会を問わずに生じるものだと思います。

ただ、私は、このような反応になることは理解できるにしても、あまり得とは考えていません。もっとはっきり言えば、みんなが反射的にこんな反応をすることは、かなり損が大きいと考えています。

損な理由1 問題の解決には繋がらないことが多い

まずもって、マナーを攻撃することは、問題の解決に繋がりにくい場合が多いように思います。

マナーというのは、その定義上、ルールと異なり、強制力を有しません。同時に、人によって、その有する意味も異なります。ルールの典型は法律ですが、立法手続のように、その内容を確定する手続はありませんし、それゆえに、全ての参加者にそれを従わせる正統性(レジティマシー)も有していません。

このような性質を有することから、いくつかの点が指摘できるように思います。
  • 第1に、本来きちんと強制されるべきルールと、このマナーの境界が曖昧になり、本来はるかに重大なはずのルール違反への意識が散漫になる可能性があります。
    よく「ルールやマナー違反」と一緒くたにされますが、これは、かえって、ルール違反の重大さへの認識をぼやかしてしまう効果があるのではないか。
    私がいるUKにおいては、様々な行政上の規制において、「リスク・ベースト・アプローチ」という考えが用いられています。これは、上記と同様に、本当にまずい問題を選別して集中して取り組め、という考慮に基づいています。
    上記記事でも、違法行為とマナー違反(?)とされる行為が区別されているようには思えません。私は、違法行為については、きちんと警察がエネルギーを割いて摘発すべきと考えます。
  • 第2に、全ての人が認識しているマナーなど存在せず、また強制する根拠も手段もない以上、効率的なエネルギー投下ができないという点が挙げられます。
    まず、マナーの内容が不明ですから、反発する人もいるでしょう。そういう人を説得すること自体が大変な労力です。
    同様に、仮にマナー違反と思われるものを見つけられても、それが本当に見えている問題の原因なのかは、個別具体的な判断が必要です。基準など存在しないのですから、当然のことなのですが。
    加えて、強制する根拠がないことから、相手が開き直ってしまえば、それで終わりということになります。
    非常に徒労感があります。
  • 最後に、非常に悩ましいのが、いわゆる新参者が増える局面では第2の問題点、すなわち、効率が悪いという問題点が極端に悪化することが挙げられます。
    スポーツ自転車が新たな参加者を集めていることは喜ぶべきことです。しかし、そういう人が、元からマナーを身につけていることは期待できません。もちろん、教育・啓蒙すればいずれは身につけるのかもしれませんが、常にタイムラグが伴います。もっとも、いずれにしても強制力がないことから、一定数は無視する人が常に存在するでしょう。
    さらに、外国人観光客を考慮にいれると、問題はさらにややこしくなります。日本人以上にマナーを共有することは困難であり、かつ、一定期間滞在すれば去って行く人たち。そういう人たちに対して、教育を受け入れるインセンティブはあんまりありません。
    結局の所、マナーの貫徹というのは、その対象となるグループが非常に静的な集団であることを前提にしなければ、なかなか難しいように思います。
    余談ですが、我が国の静的な雇用慣行や、少子高齢化といったバックグラウンドと、マナー、あるいは「空気」を重視することは、非常に符合するように思います。

損な理由2 副作用が大きい

問題が解決しないという指摘に加えて、さらに、マナーの問題とすることは、副作用が大きいともいえます。

ルールを守っても非難されるという我が国の悪弊を助長する

よくブラック労働問題の文脈で言われますが、労働契約を守って定時に帰ることが、空気を読まない、と非難されることについて、皆さんはどう思いますか。

私を含め、近頃は、このようなのは理不尽だ、と思う人が多いように思えます。

しかし、残念ながら、現状をみても、このような非難は別段不当でないと思う人がそんなに少なくないように思います。

我が国において、直ちにマナー違反だとして非難するのも、基本的には同じ構造です。上記の通り、マナーというのは、その定義上、ルール違反ではありません。しかし、それを非難しようとする人たちが一定数存在し、それをなんとも思わない人がそれなりにいる。

労働問題とヤビツの問題は、一見して関係ないようにも思えます。でも、私は、本質は同じと考えています。

本当に非難できるルール違反が何であり、それ以外の「非難できないけど気に入らない点」を区別する慣行が我が国にはないように思います。

目の前に問題が生じた時に、安易にマナー違反と非難することは、巡り巡って、別の場所で、自分が理不尽な非難を受ける土壌を作っているように思えます。

問題をニュートラルに捉え、様々な手を柔軟に使って解決しようという思考を阻害する

最後に、そして最も損と思っているのが、この点です。

目の前に問題があるとき、その問題を生じさせた原因が、人であるとは必ずしも言えません。

確かに、マナーが悪いとされる人がいなくなれば「あれなけばこれなし」(conditio sine qua non)の関係は形式的には成り立つかもしれません。
でも、現実には、人間以外の要素を排除しても、同様に問題を解決できることがほとんどです。

あるいは、人間の行動という要素に着目するにしても、その行動を「マナーが悪い」と呼んで非難しそして教育する方法で変化させなければならないという必然はありません。

行動さえ変えてもらえばよいのですから、敢えて非難する必要はないのです。極論、そういう人に対しては、非難ではなく、契約とお金で行動を変えてもらうことだってできるのです。

これに対し、問題が生じた時に、反射的に「あの人の行動がマナー違反だから」と言ってしまうことは、2点において、上記のような思考を阻害します。すなわち、
  • 人の行動が原因という考えに捕らわれ、他の要素に目が行かなくなる
  • その人が「悪い」という非難が先行するゆえに、その行動を変える責任や負担を本人に帰してしまう。例えば、上記のように、利益で誘導する、といった考えに思い至らなくなる。
問題を解決するのには、様々な方法があります。ところが、「誰かが悪い」といった瞬間に、多くのアイディアがあり得るにもかかわらず、それらのアイディアは日の目を見ずに終わりがちです。

「悪い人」のために、どうしてそんな支出をする必要があるのでしょうか?と。
でも、最初に戻りますが、そもそもその定義上マナーは他人に押しつける正統性を有していません。「悪い」というのが、そもそも根拠がないのです。

「誰かが悪い」と考えるのではなく「うまく噛み合わない」と考えたい

私は、マナー違反という言説は、ある種、生じた問題を個々人の自己責任にする(別の言葉でいえば、問題解決のためのコストを個人に内部化させる)ための道具、さらに言えばある種のドグマのように感じています。

だって、実際に起こっていることは、ルール違反でない行為で問題が生じた、そんだけ。

なのに、なんで、立法のような民主的正統性ある手続も踏まれずに、「マナー違反」と断じられた人たちだけが負担をしなければならないのでしょうか。

問題解決コストの負担には、さまざまなアレンジがありえます。

個々人が頑張ることであっさり問題が解決するのであれば、それでいいでしょう。そういう場合には、マナー違反という言い方も、あるいは意味があるのかもしれません。

しかし、多くの場合、そう簡単ではない。そういうときに「誰かが悪い」と考えるのは、かなり損が多いように思います。

私たちに必要なのは、問題が生じた時にすぐ「誰が悪い」と直感的に犯人捜しをすることをやめること。「うまく噛み合わなかっただけ」と考えて、問題解決手段を考えていくことなのではないか。

・・・念のため。
私はこんなふうに考えていますが、皆がそう考えるべき、とは思いません。それをやってしまうと、私が上で述べたように「誰かが悪い」と考える罠にはまってしまうからです。

結局、この問題は、時間が解決するしかないのかもしれません。

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