2016/12/16

車道通行のロジックのうち唯一「非倫理的」と思う点

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私は常日頃から次のように考えています。

  • 議論の善悪、正義かそうでないかよりも、社会にとって得かどうかを正面から考える
  • 立場の違いは認めつつも、問題の解決を第一に考える
したがって、現在の自転車の通行空間を巡る議論についても、あくまで社会にとって損かどうかという観点の量的な見解の相違と基本的には思っています。

見解の違いは、正義かそうでないかではなく、
  • 事実を誤認している
  • 事実認定の根拠が明らかでない
  • 論理的な繋がりが弱い
  • 人間の心理的な弱さ(リスク回避行動・Herding等に代表されるBounded Rationality等)を考慮に入れていない
これらがいかに損得勘定に影響するかという点についての言ってしまえば「細かい」話であり、それが倫理的に正しいかどうかについては基本的に興味はありません。

でも現在の政策は「車道通行ドグマ」が強い影響を及ぼしている

しかし、同時に、私は現在の「安全で快適な自転車利用環境創出ガイドライン」を筆頭とする自転車通行環境の政策が向かっている方針は損得勘定を越えたドグマ(信念・観念)が支配していると考えており、かなーり批判的です。

いつもTwitterではgdgdうるさくてすいません。

本来、道路整備と通行ルールの関係は、次のような関係にあるはずです。
  1. 安全性、経済性等を技術的見地から検討して道路を整備
  2. 当該道路状況を前提に、道交法をあてはめて、通行者を配分する
最近知られるようになった、道路交通法における自転車の車道通行は、2の局面に属します。

道路交通法は、道路通行環境が一度整備された後の所与の環境を前提に、ではそのような場所ではどういう優先順位/方法で通行するのですか?ということを定めるルールなのです。

例えば、道路交通法における自転車の車道通行は、自転車道が存在しない道路におけるルールです。言い換えれば、自転車道を作ってしまえば普通自転車はそこを通行する義務があり、そこで「車道通行ルール」は普通自転車に対しては意味を有しません。

また、歩道がある場所においては、例え基本は車道通行であるとしても、道路状況によっては自転車利用者は歩道を徐行して危険を回避することが可能です。

このような通行ルールは、プログラミングの"if" "else"みたいに前提条件と分岐の関係をさだめるもの。ある状況ならある通行、というだけであり、例えば例外に陥ったからといってそれが「恥じるべきもの」「価値的に低いもの」といった含意はありません。

ところが、現在のガイドラインでは、そもそも1の道路整備の局面において、「自転車は車両だから車道が原則」という、道路整備がされた後の議論を持ち出すという倒錯した論法に陥っています。


車道通行を基本とした自転車通行空間整備を促進することは、「自転車は、車道が原則、歩道は例外」、「車道は左側を通行」等を国民に周知し、浸透させる上でも有効である。 

通行ルールを周知させるためにリスクに晒すという発想は損得のレベルでは片付かない

ここからが本論です。

このように、現在ガイドラインは、道路整備の場面において、道路自体の純然たる安全性・経済性のみならず、本来論理的には後の存在である通行ルールの周知という目的を考慮要素にいれていることを明示しています。

この方針は、元々は平成23年の警察庁の通達が始まりのようです。
この通達はガイドラインの参考資料に含まれています。
ガイドライン 参考III-93
従来、自転車利用者は、多くの歩道で普通自転車歩道通行可(以下「自歩可」という。)の交通規 制が実施されていたこともあり、道路交通の場においては歩行者と同様の取扱いをされるものである という誤解が生じていたところであるが、近年の自転車に係る交通状況を踏まえ、車道を通行する自 転車の安全と歩道を通行する歩行者の安全の双方を確保するため、今一度、自転車は「車両」である ということを、自転車利用者のみならず、自動車等の運転者を始め交通社会を構成する全ての者に徹 底させることとした。そのためには、自転車道や普通自転車専用通行帯等の自転車の通行環境の整備 を推進し、自転車本来の走行性能の発揮を求める自転車利用者には歩道以外の場所を通行するよう促すとともに、
もっとも、注意して読むと、この書き方は現行ガイドラインとは異なります。
通達においては、あくまで「歩道以外の通行を促す」と述べており、これ自体、車道通行を推進することとは直接の繋がりはありません。

ところが、ガイドラインでは、ここから更に進んで、車道通行こそが、「自転車は、車道が原則、歩道は例外」、「車道は左側を通行」等を国民に周知し、浸透させる上でも有効」と明言していることになります。

リスクに晒すだけではルールは周知されない。人が死んで周知される・・・かもしれない。たぶんそうならないけど。


しばしば語られますが、この発想の裏には、リスクに晒すことでルールを守らせる、という考え方が存在します。

この考え方は近時よく周知されており、現にサイクリストの中にも「車道を走ることでサイクリスト・ドライバー双方のルール・マナーの向上が・・・」と言われる方もいらっしゃいます。

ろぜつさんの分析によると、日本におけるこの考え方の発火点は、現行政策の理論的支柱になっている古倉教授の2004年の博士論文の次の記述(p445)に求められるようです。
米国の州の道路交通法に当たる車両法では「自転車の運転者は自動車の運転者と同等の権利を有し、義務を負う」と明言されているところがほとんどであるように、権利と義務をセットで自転車に認め及び課している。これにより、クルマも車道通行の自転車に対してその走行を尊重するし、自転車側も責務としてクルマに適用される同じルールを遵守する
一見もっともらしいですが、この点についてはかなり致命的な問題があります。

1点は、本当にそうか?論拠がないのではないか?という点。これは上記「損得」の問題の1つです。細かい話なので今日はパス。

今回申し上げたいのは、そちらではありません。

このような関係が仮に成り立つとしても、それが実現する過程で、死者が出ることが容易に予想され、現に他国では経験されているという点です。

人間は強い生き物ではない。人間は自身による、あるいは身近な存在による衝撃的な体験がない限り、現に存在するリスクから目をそらし続ける生き物です。

このことは、「行動経済学」というノーベル賞を取ったこともある一連の研究で明らかにされています。もはや世界の公共政策における常識といってもいい考え。

車道で混在させれば皆がルールを守る、という耳障りのいい考えですが、その機序(プロセス)を具体的に考えると、それが万が一あり得るとしても複数人の死者が出てからでしょう。

このことは現に自動車事故がなくならないことを考えて見れば明らかであるように思います。自動車が自動車にボコスカぶつかっていることはみなさん頭ではご存じですが、事故が撲滅されるにはほど遠い状況です。

私が住むロンドンでは、当初、車道混在型の「サイクルスーパーハイウェイ」が整備されました。しかしその路上で死亡事故が多発。サイクリストの猛抗議を経て、分離型の自転車道に明確に舵を切ったという経験があります。

このように、実際に人が死んでいるのです。

敢えて「リスクに晒すことでルールを守る」という論法を採用する。

この点に関しては、例外的に「倫理的にどうか」という問いが成り立つように思います。


ちょっと酷くないですか?
とおもったのでした。

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