2016/05/27

ロンドンが分離型自転車道に舵を切ったときの・・・

ポリシーペーパー。かなり前に発表されたものです。
今日のTwitterでカーゴバイクネタをゴチャゴチャとやっていた際に、久々に紐解いてみました。



TfLコミッショナーのSir Peter Hendyによる前文。格調高くていいこと言ってますね・・・

今日はこのご紹介だけ。拙訳失礼。

But I am committed, too, because I believe this is about so much more than routes for cyclists. It is about the huge health and economic benefits that greater cycling can bring. It is about improving London’s streets and places for everyone, including those with no intention of getting on a bike. And it is about helping the whole transport system meet the enormous demands that will be placed on it.
(TfLのみならず)私自身にもこの政策を実行する責務があります。というのも、私にとって、本件は、単に自転車のルートの問題に留まらないからです。これは、自転車がもたらす健康上・経済上の巨大な利益に関わります。これは、全ての人のために - 自転車を利用する考えが全く無い人にとっても - ロンドンの市街地を改善する試みです。そして、これは今後見込まれる膨大な交通需要を満たすために、全交通機関を手助けするものでもあります。

(中略)
Nor do our policies for cyclists end with routes and junctions. Just as important is our range of other measures to make cycling safer and more normal. We support employers to get their staff cycling. We fund schools to train children. We will encourage people to construct routes of their own through new suites of smartphone apps. And we are doing an enormous amount to pinpoint and reduce the dangers from large vehicles. Cycling in London is about 25 per cent safer than it was 10 years ago. But safety remains at the heart of what we do, and is fundamental to this plan. 
私たちの自転車政策は、ルートや交差点の問題に留まりません。それらと同等に重要なのは、自転車をより安全かつ日常的(normal)に利用してもらうための一連の政策です。私たちは、被用者の自転車利用を促進する雇用主を支援します。子どもたち(の自転車利用を)教育する学校を支援します。また、今後、スマートフォンのアプリを利用して人々がルートを発掘することも支援していきます。そして、私たちは、費やせる限りの労力を、大型車に由来する危険を減少させることに費やしています。ロンドンの自転車交通は、過去10年で25パーセント安全になりました。しかし、安全問題は、いまでも常に私たちの政策課題の中心にあり、また、本プランの核心となっています。



公共政策を考える上では、常にThird Party Effect、日本語でいえば「外部性」に目を配る必要があります。

利用者とそのコストをダイレクトに負担している者だけではありません。この前文は、明確に、自転車利用は利用者以外の者に正の外部性をもたらすことを言明しています。

現状の自転車利用者がスムーズに流れればいいのか。
これは明らかにNOです。

今のルールとインフラを前提に利用できる強者のみが使えればいいのか。
これもNOです。

安全性を向上させ、ルールを調整し、自転車利用を拡大すること。これが国民経済、健康、そして他の交通機関利用者にとっても利益になる。

そういう確固たる自信が伝わってくる文章だとおもい、紹介する次第です。

2016/05/22

The Table of Eleven - どうして道路交通法は守られないのか?

いつも思っていますが、自転車走行環境に関する議論は、「ルールを守ろう」で思考停止することが多い。

しかし、今のルールが、本来の目的 - 安全で円滑な交通 - の確保のために最も効率的な方法かは、実はよくわからないところがあります。

ルールが守られない場合、「守る人の知識・モラルが低い」という議論に終始することも多いのですが、ルールが守られない原因には、ルールそのものの出来が絶対的に悪い場合や、ルールとそれを取り巻く環境やデザインとの食い合わせが悪かったりすることが多いように思います。

そのような場合には、闇雲にルールの遵守ばかりを説いても、なかなか守ってもらえないことが多い。

2016/05/18

前ブレーキレバーは右側?左側?

30代男性「プロのロードバイクはブレーキレバーが左右逆では?」 - cyclist




自転車レースをご覧の方には常識ですが、プロロードレースにおいては、かなりの割合の選手が、前ブレーキを左手のレバーに設定しています。

そして、メジャーコンポーネントメーカーのキャリパーブレーキは、左手レバーに前ブレーキを設定するほうが、ワイヤーの取り回しが自然になるように設計されています。

その理由について、上記記事はいろいろと推測しています。

ただ、この記事の内容は、栗村さんの経験(伝聞)または推測の域を出ないように感じます。

よく言われるのが、UKや日本のように左側通行の国は右前ブレーキであり、これに対し、大陸ヨーロッパは左前ブレーキであるという傾向。

これはどうして?いつのタイミングでこうなったのだろう?

とても気になるところです。

というわけで、ウェブで分かる範囲ですが、調べてみようと思いました。

出発点・UKではどうか

UKでは、右前ブレーキが法令によって義務づけられています。

http://www.legislation.gov.uk/uksi/2010/198/pdfs/uksi_20100198_en.pdf
Supply of assembled bicycles
4.—(1) Subject to paragraph (2), a person must not supply a bicycle unless the requirements of paragraphs (3) to (12) of this regulation are satisfied.  
(中略) 
(4) Where the bicycle is fitted with brakes which are intended to be hand operated— (a) the brake lever intended to be operated by the right hand must operate the front brake; and (b) the brake lever intended to be operated by the left hand must operate the rear brake. 
ただ、この理由付けについては、必ずしも明確ではありません。
一般によく聞くのは、前ブレーキのほうが制動力に寄与することから、それを利き手でコントロールする、というもの。

この説明は、経緯に照らしても、比較的説得力があります。

古い自転車は右前ロッドブレーキが多い?

第1回ツールドフランスの写真
フランスだけど右前ロッドブレーキ!
実際、古い自転車の多くが、前輪ロッドブレーキの操作を右手に設定していたようです。
ベンツ博物館にあった1910年代?のベンツ製自転車
右前ロッドブレーキ
とても美しい
これに対し、やや微妙な説明もあります。ブレーキの配置の違いは、通行方向の違いに由来している、この違いが右前左前に反映されているのだ、という説です。
Cables



My theory is that it is based on the reasonable idea that you should be able to have your primary braking hand on the handlebars while making a turn signal with the appropriate hand -- coupled with the erroneous idea that the rear brake is the primary brake.
私の説だが、これは、主となるブレーキを操作する手をハンドルバーに置いている間、その余の手で手信号を出すことを可能にするためではないかと考える・・・ただし、リアブレーキが主となるブレーキであるという誤った考えと共に。
微妙と述べたのは、この説明は、理屈がややトリッキーだからです。

左側通行であり、キープレフトを徹底する場合、右手で手信号を出すことが、後続車の視認性の関係で合理的であるように思えます。

そうすると、日本やUKのように左側通行の国においては、手信号とメインのブレーキ操作を同時に可能にするためには、左手を制動力あるブレーキに設定すべきではないか。

前ブレーキをメインブレーキと考えると、左手が前。

逆になっちゃいますね。

そこで、この説は、「後ろブレーキがメインブレーキという誤った考え」があったのではないかと主張しています。

しかし、過去のロッドブレーキの自転車を見る限り、この考え方は本当かなあ、と疑問に思っています。この点が、ちょっとトリッキー。

※後輪ブレーキだけの自転車のほうがメジャーだったという根拠があれば、ぜひ教えて下さい。

Why Do Brakes Differ From Country To Country? | CyclingTips




この記事も「後ろブレーキがメインブレーキという誤った考え方」という説明をしています。

道路の中心側にハンドシグナルを出すのは必然か?

ただ、歴史的には、左側通行の場合右手、右側通行の場合左手でハンドシグナルを出す、というのは必然ではなかったようです。

言い方を変えれば、ハンドシグナルを道路の中心側に出すのは必ずしも必然ではなかった。

実際、先日訪問したベンツ博物館の説明によれば、最初期の自転車は、路肩に転落することを防ぐため、ドライバーは道路の中心側ではなく、道路の外側に座っていたということ。

そして、その頃の自動車にはウィンカーなどありませんから、ハンドシグナルも、座った側のサイドから出していたようです。

証拠の確保を忘れていたのが悔やまれます

この場合、右側通行の国では、右手でハンドシグナルを出すことになり、左側でブレーキを操作することには、合理性があります。

大陸ではどうか

さて、これに対して大陸。

現在は概ね左前ブレーキとなっているようですが、過去の写真を見る限り、元々は必ずしもそうでなかったようです。

既に示したとおり、第1回ツールドフランスの写真も、20世紀初頭のベンツ製自転車も、右前ロッドブレーキです。

右手で制動力の高い前輪をコントロールする、というのは、少なくとも当時は標準的な仕様であったのかもしれません。

実際、大陸の中でも違いがあります。
現に、イタリアなどは、ごく近時まで右前ブレーキがプロレーサーの間でも使われていたようです。

例えば、古くはファウスト・コッピ、最近ではマルコ・パンターニの写真を調べてみてください。

いずれも右前ブレーキの設定になっているのが分かります。
Fausto Coppi, Tour de France 1952 02

謎は深まるばかり

こんな感じで様々な情報が出てくるので、謎は深まるばかりです。

きちんとやるのでれば、どうしてもネットでは限界があるので、書籍や特許公報等の資料に当たる必要がありそうです。

ただ、なかなかそういう時間もないので、次回は、さしあたり、ネットで見つけた古い自転車の画像をもとに、ヒントを探ってみようと思います。

続きます(たぶん)

「ルールを守る」で思考停止することによる損/ルールは交通安全の1ツールに過ぎないでしょっていう話

てなことを言うとまた怒られるわけですが(誰からとなく)、現在の自転車インフラに関するメインストリームの議論で、最も疑問なのは、この点です。

道路交通法は所定の道路状況を前提にした調整ルール


道路交通法は、道路インフラが場所によって様々に異なることを前提に、当該インフラの状態に応じて、複数の利用者(自動車、軽車両、歩行者・・・)の利用の調整を行うことをその内容にしています。
第一条  この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする。
 ただし、このルールは、道路をどう作るかについては、一部の設備(例えば、信号機)を除き、規定していません。どういう設計をすれば安全な道路になるかは、道路法を筆頭とする公物法が規定しています。

単純化すれば、道路交通法は、どのような道路にすれば安全か、という設計については語りません。道路交通法は、現状の道路を見た上で、「この場合は、こう走ってね」と調整しているに過ぎない。

例えば、道路交通法には、自転車道の規定がありますが、これは「自転車道がある場合」の規定に過ぎません。同様に、歩道通行の規定もありますが、これも「歩道がある場合」の規定です。

当たり前のことですが、歩道通行のルールがあるからといって、自転車が走るための歩道を作る義務が生じるわけではありません。ただし、実際の政策立案においては、そのような事実上の影響があったのは確かなように思えますが。

交通ルールは、道路設計とともに、安全で円滑な交通を実現するためのツールの1つに過ぎません。

(特定の状況を前提にした)交通ルールが至上のものであり、道路設計もこのルールの理念に基づいてやるという考えは取り得ないと考えます。

メインストリームの議論:ルールが設計をジャックする

これに対し、メインストリームの議論は、どうも違う考えのようです。

「自転車ネットワーク計画策定の早期進展」 と「安全な自転車通行空間の早期確保」 に向けた提言
平成28年3月 安全で快適な自転車利用環境創出の促進に関する検討委員会
http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/cyclists/pdf5/proposal.pdf

ここには、次の下りがあります。
暫定形態での整備は、現に車道通行している、もしくは今後、車道通 行に転換する可能性のある自転車利用者の安全性の向上を図ることを 目的とするものであるが、「自転車は、車道が原則、歩道は例外」、「車道は左側を通行」等を国民に周知し、浸透させる上でも有効であるこ とから、整備を促進すること。
ご存じでない方のために説明すると、この「暫定形態」の整備とは、本来はもっとプロテクティブな設備、例えば自転車道等を設置すべき場所において、やむを得ず「車道混在」等の方法を採用する場合の整備方法を指します。

この「暫定」という言葉から分かるとおり、「暫定形態」の名の下に整備が行われるということは、その場所が本来もっとプロテクトが与えられて然るべき危険性が高い場所、という発想が論理的な前提となっています。

しかし、メインストリームの議論は、このような危険性が高い場所の暫定整備について、車道通行という道路交通法の特定のルールを「周知する」という積極的な意義を見出しています。
上記の通り、本来、交通ルールは、所与の道路の状態を前提にして、その後に考えるもの。

ところが、検討委員会の結論は、道路交通法の「車道通行」を、道路の設計より上位に置いているという関係にあるのではないか。

なぜそう言えるのか。

検討委員会自身が「暫定形態」と表現する通り、同委員会も、道路設計単体で見れば、もっとプロテクティブな、例えば自転車道の設定が必要なことは認めている。

そして、自転車道が設定されれば、車道通行原則の出る幕はありません。なぜなら、車道通行のルールは、自転車道がない道路における規定だからです(道路交通法63条の3参照)。

車道通行原則というのは、ある状況を前提とした調整ルールに過ぎません。このルールが、本来望ましくない「暫定形態」に積極的な意義を与え、道路整備を「裏口からジャックする」。

控えめにいって、交通ルールの過大評価ではないかと。

ルールインテンシブな議論は、思考を硬直化させる ー 要するに損だよ

冒頭に戻ります。

ルールインテンシブな議論は、本来他のツール(例えば、道路設計)で解決すべき問題を全てルールの問題に押し込んで、教える(例えば、道路交通教育)または脅す(例えば、刑罰による抑止)の議論に終始します。

現に、上記検討委員会は「利用環境創出」という名前であるにもかかわらず、延々とルール教育の議論がされていたということ。

本件でいえば、安全性が第一であるはずの道路設計に対し、「教育」という意義を付与することが、その現れです。ルール思考の典型的な発想です。

しかし、説明した通り、この思考は、本来望ましくない設計に積極的な意義を与え、道路設計の議論に不当な影響を与えている。

これはどうかなと思うところです。

さらに、このルール至上の議論は、同時に思考の硬直化を招きます。

問題の解決のためには、ルール以外の方法も同じテーブルで議論されるべき。

既存のルール、それも特定の状況を前提とした調整ルールを不動のものとして他の整備を規定してしまうのは、本当に適切な解決を見逃してしまわないか。

端的に言って、ルールインテンシブな議論は「損」だと思うんです。

ルールの意味と損得を意識せずにルール遵守の有無で語るのはイマイチ

ルールには意味があります。

「ルールを守る・守らない」で思考停止し、それがどういう状況を想定し、何を、どの程度守っているのかというルールの意味を理解しなければ、ズレた議論になります。

場合によっては、ルールに頼ることはコストの割に効果が悪い、別の方法を採ろう、ということだってあり得る。

例えば車道通行原則を推し進めるのであれば、体力的に弱い利用者は自転車の利用を諦めることもあるでしょう。その点についてのマイナスも加味した上で、他の方法、例えば道路の設計で解決できないかを同じ土俵で検討すべきです。

設計の意義すら「車道通行原則に資するかどうか」で考えるのは、議論が歪みはしないでしょうか。

どうなりますかねえ。

2016/05/16

生きる価値のアンバンドリングと自転車

今回は今まで以上にぼんやりとした話ですが・・・


自分がどう見られるか、ちょっと気になりながら
さあ、みんななんて言うかな
お似合いですよ、先輩!
まずはこれを。

終身雇用、年功序列、賃金右上がり。世界で日本が最も成功した資本主義モデルともてはやされた1970年代末から1980年代初頭を象徴するCMです。

「いつかはクラウン」という言葉

そして郊外の一戸建て

これは、私の親の世代。
所詮伝聞にすぎませんが、当時の人たちにとって、給料と地位、自動車、そして持ち家は、人生のステージが進むにつれ、不可分のものとして手に入るべきものであったかのような印象すらあります。

そして、多くの人がこれらを入手できるようになるにつれ、人は小さな違いを気にするようになります。

住宅の立地 東急新玉川線か東横線か?
自動車の車種 クラウンかカローラか?
地位 取締役か部長か課長か?

そんな蛸壺の中でドングリの背比べを続ける。
夢は「いつかはクラウン」

シンプルで幸せな時代だったように思います。

その後、日本の経済は現在に到るまで停滞しますが、このようなドングリの背比べ根性は、社会のいたるところに残っています。

これに対し、私がUKに来て思ったのは、ここにいる人たちは、あまりにも違いすぎるということ。

肌の色といった外見から始まり、宗教、働き方、住んでいる場所、そもそも言葉だって全く違います。

※もっとも、究極的にはオックスブリッジのインサイダーが根本を抑えているところはあり、そのなか相当の均一性はあるように思います。

そんな世界にいると、少々の違いなんてどうでもよくなるように。そこで考えることは、自分の手持ち資源を前提にした上で、どこまでそれを効率的に活用してのし上がるか。

このような多様な世界においては、上記のような価値のセット販売はあまり成り立ちません。皆が同じようなものをセットで手に入るなんてあり得ませんし、そんなところでは、細かな違いなんてどうでもよくなります。

このような社会において、現在進行形で、自転車利用が大きく伸びている。これはとても象徴的な事のように思えます。

世界で最も給与所得が高い町であるシティの勤務者、同じ町でメッセンジャー、デリバリーを担う人が、同じ乗り物に乗ってサイクルスーパーハイウェイを疾走する。



これは何を意味するのでしょうか。

自転車が、環境問題や健康問題への有効なツールであることは多く語られています。

私にとっては、いまロンドンで起こっていることは、自転車が多様性ある社会において果たす役割をこれ以上無く象徴しているように思います。

生きる価値は、これまでのセット販売から、今後ますますアンバンドリングされていくでしょう。その中で、自転車というツールが果たす役割は、どんどん大きくなるように感じています。

2016/05/14

生活道路にオービスを設置すること ちょっと費用対効果が悪かろうなあと

という報道。
事故防止という観点から好意的なコメントが多いようです。

「国民監視」というテンプレは完全に度外視した上で、私は、お費用対効果の点から、この施策は少なくとも単体ではあまり効果がないのではないかと考えているところです。

 「やらないよりはまし」という程度の意味はあるかもしれませんが、1台1000万円+維持費用を費やすリソースを、もう少し他に投入する方が意義があるのではないか、と。

理由は次の3つ。

数台導入しても、摘発率は改善しない

オービスは、ある路線のあるポイントで速度違反をした車を捕まえる装置です。
そうでない場所については、何らモニタリングを行いません。

したがって、現在は、高速道路で速度超過をおこしやすい、事故のリスクが高いといった場所に選択的に設置されています。

翻って、生活道路において、スピード超過に起因する加害が生じうるリスクがある場所は、無数に存在します。

したがって、数台導入した程度では、雀の涙ほどの摘発率の増加しか見込めないように思えます。

加えて、オービスには、プライバシーといった権利との兼ね合いから、設置する場合には予告看板を伴います。

さらに、最近は、レーダー探知機、カーナビ等のデバイスにより、オービスの設置場所を見極めることも容易になってきています。

これらの事実が意味することは、オービスは、設置された場所以外に抑止効果が期待しがたい装置ということです。サイレントで待ち伏せするねずみ取りとは違う。

以上の理由により、数台導入する程度で、摘発率について有意な向上は見込めないでしょう。

リスクが高いと評価できる生活道路に限っても、カバーするのは現実的には不可能です。

スピード違反に対するペナルティの程度が低い

摘発率×ペナルティの額=ペナルティの期待値(Expected Damage)

違反を犯すかどうかは、上記の方法で計算されるペナルティの期待値について「こりゃ嫌だ」と思うかどうかに左右されます。

したがって、摘発率が低い(見つけにくい)違反の場合は、ペナルティの期待値を高めるために、ペナルティの額を高くすべきというのが、規制における基本的な考え方です。

しかし、現在のスピード違反に関する規制は、大幅な速度超過により刑事手続(赤切符)となるものを含めても、ペナルティの額は摘発率との関係であまり高いようには思えません。
反則行為の種別及び反則金一覧表 警視庁




現に、簡易裁判所には、スピード違反で捕まる人が途切れることはありません。

この問題は、生活道路においては特に深刻です。

なぜなら、生活道路のようにマージンが少なく、歩行者が近接している場所においては、わずかなスピード超過であっても、歩行者に対するダメージは大きく違ってくるからです。

しかし、上記警視庁の反則金一覧表を見れば分かるとおり、生活道路か幹線道路かで区別した基準にはなっていません。

例えば、生活道路、制限速度30キロ規制の場所において、44キロで走行したら超過14キロとなりますが、これは反則金の区分では最低の額に位置します。
しかし、30キロと44キロでは、リスクの程度は大きく違うように思います。

今のペナルティは、抑止力を適切に発揮出来ない仕組みのように思います。

病気や能力の衰えによる暴走には対応できない

オービスは、スピードを抑えることを促す装置です。

つまり、病気や能力の衰えによって意図せず暴走してしまう人には、なんの効果もありません。

昨今、この種の暴走が目立っているのはご承知の通り。

まとめ そもそも生活道路を高速で走らせない仕組みが大切

以上から分かるように、私の理解では、オービスの効果は、「ないよりはまし」という程度のように思えます。
せめて、ペナルティをもう少し適切なレベルに引き上げることが、この措置を意味あるものにするように必要であるように。

限られたリソース。

同じ費用であれば、例えば生活道路への侵入を抑えたり、速度を物理的・心理学(本能)的に抑えるデザインに費やすべきではないかと考えているところです。

いかがでしょうか。

2016/05/04

外国人の観光客を誘致することと「外国人のマナーが悪い」ということの関係

きっかけは、このツイートでした。伊豆大島で開かれた自転車のアジア選手権についての地元自治体の振り返り。
多くの外国の方が来島したため、一部の国のマナーの悪さや交通ルールを遵守できない等の問題が発生し
という下り。
私は、おいおいそれはないだろう、と思ってしまったのです。

日本を見渡しても、すくなくとも表向きに「観光客誘致」を掲げない自治体は存在しないでしょう。少なくとも私は知りません。

国際的な競技大会というまたとないチャンスに恵まれながら、こんなことをオフィシャルに言ってしまうのは、あんまりではないか、と思ったのです。

なぜそう思ったのか

理由は2つ。規範的・倫理的な面と、実利的な面です。

1つめ、規範的な面について

その国にはその国ならではのお作法があります。「マナーが悪い」とされた来島者も、出身国のスペクトルで見れば、そう大きく逸脱した人ではないはず。

もちろん、ミニマムなルール、例えば日本における犯罪に到れば別でしょう。そのような最低限のルールは、厳しくエンフォースされるべきです。

しかし、マナーは時と場合による。日本国内においても違いうる。柔軟なものです。

マナーが悪い、と感じられたとしても、外国人によるそのような行為自体には、直ちに非難可能性はないと私は考えます。マナーは国によって違う。外国人客の立場から見ても、日本に来たから直ちに日本に合わせろというのは、期待可能性がない。そもそも知らないし、言葉で説明されても、なかなかぱっとは実践できないからです。

したがって、本件のように外国人が来る場合には「マナーが悪い」と倫理的に非難するのではなく、あくまで「マナーが違う」と考えるのが筋であるように思います。

我が国において、ご承知の通り、昨今「観光立国」という言葉がよく使われます。このような言葉を掲げた上で外国人観光客を誘致するのなら、各国間のマナーの違いは、当然の前提として織り込まれるべきです。

マナーの違いを受け入れることで、それへの対応のコストは生じますし、その分担については色々なアレンジが考えられますが、来てくれた外国人に対して、そのようなコストを生じさせたこと自体を非難するべきではない。

むしろ、非難するくらいだったら、最初から呼ぶべきではない。
呼んでおいて、来たら非難する、というのはあんまりではないか。

これが1つめの、規範的な理由です。

非難する気持も分かるという指摘

これに対し、次のような指摘がありました。
この指摘に対して、私は必ずしも同意できませんが、このように考えられる背景には、この種の非難に実利的な意味があるのかもしれません。

例えば、放っておいても一定の人を集める人気があり、かつ逸脱した者を非難する情報が流通することよってその人の「メンツ」を潰す効果があれば、一定の抑止効果がありうる。

公共政策の文脈では、Name and Shame, Public Censureと呼ばれる手法です。

しかし、この実利的な意味でも、外国人客に対して、マナーの違いを「悪い」と非難することには意味がない、むしろ損になる、問題を生じさせるように思えるのです。

2つめ、実利的な面について

非難されることを知ることによって、外国人観光客の足は遠のくのではないか

上記のように、非難が抑止という実利的な効果を有するためには、非難されないためのコスト(外国人観光客に関して言えば「郷に入っては郷に従う」を実践する)をわざわざ払っても、その国/コミュニティ/グループに入っていきたいという欲求や実利が必要であるように思えます。

そうではなく、他にもいくらでも同じような代替案があり、そこでは非難されないためのコストを敢えて払う必要がなければ、どうでしょうか。

世界中の国と競いつつ観光客を呼び込むことは、後者のような状況であると考えられます。

日本は、あくまであまたある国の1つ。他にもいろいろ魅力的な国はある。
そういうなかで、日本だけ「郷に入っては郷に従え」を厳しく要求し、そうでなければ小言を言われる。

そんな情報が流通したら、どうでしょうか。

「じゃあ、いいや」

ってなっちゃいそうな気がしませんか。

「相手が悪い」「相手が変わるべき」というマインドは、合理的な対策を阻害する

さらに、この非難は、受け入れる側のマインドにも影響を与えます。

上記の通り、マナーは「違う」ものであり、非難されるべきものでない。

とはいっても、その違いによって、コストが生じるのは確かです。

しかし、生じたコストは、得られる利益と天秤にかけ、場合によっては料金に織り込むなどして、コストを分担する。ここには、様々なアレンジがあり得ます。

また、相手を非難することで抑止を試みるのではなく、デザインでよりよい行動に向けて"nudge"することも考えられます。

※あんまり訳がよくないらしいです。。。

相手を非難して望ましくない行動を抑止することは、日本国内では可能かも知れません。時々マスコミがそういう非難の拡散を行うことがありますよね。

でも、上記の通り、他にいくらでも代替がある外国人にとって、そんな抑止は期待できません。
むしろ、そんな非難をするような国だ、という評判が広がるリスクすらある。

余談ですが、私は、東京オリンピックを控えて最近話題になっている、刺青をいれた外国人に対して「シールを貼ってもらって入浴させる」という発想は、とても侮辱的であると考えています。そして、スポーツのセレブリティには、かなり大がかりな刺青をしている人も多い。そういう人に対して「郷に入っては郷に従え」をこのような方法で求めることは、上記の意味でのリスクが高いと考えています。

このように抑止を試みるのではなく、不可避のコストの分担や、デザインによって、コストの問題として淡々と処理する。

このような処理を受け入れ側で行うことは、できもしない相手の変化を期待するよりも、ずっと効果的かつ効率的ではないでしょうか。

相手を非難することは、このような柔軟な思考を阻害します。

「あっちが悪いんだから、なんで我々が対応する必要があるの?」

そうではなく、相手を非難しないことで、透明のコストとして見ることができる。
あとは、それをどうさばくかの問題に過ぎません。

コストとメリットを天秤にかけても、なお無理な場合だってある

こんな考えのもと、私は、外国人のマナーが悪いと非難することは、規範的にも言い過ぎだし、実利的にもデメリットが大きいと考えてきます。

ただし。

無色透明のコストとして考えるとしても、そのコストを減らす努力が必要なことは、言うまでもありません。そして、どこかでこれ以上コストを減らすのが無理となった時に、メリットと天秤にかけてペイしないのであれば、本件のようなスポーツイベントであっても地元の判断で「いらないよ」と言えるのは当然のことです。

そこで、敢えて「国家的イベントだから」と押しつけるのは、傲慢以外の何者でもありません。

私は、そのような考えには立ちません。

本件の文脈で言えば、まず自転車界サイドも、可能な限り地元に負担をかけず、地元の人も気持ちよく応援できるような努力をする。外国人との「違い」についても、その軽減方法を相手を非難しない方法で追求すべきです。

いくら頑張っても地元への負担が大きいのであれば、地元自治体はビジネスライクに「負担と実利が見合わないので」とイベントの現在または将来に向かっての開催を拒否できて然るべきですし、そういう反応に対して自転車界が怒り狂うのは、やはり違うと思います。
そういう意味で、高速船の上記対応については、とても正当な話ではないかと思いました。あんまりメリットがないので、特別扱いはしませんよ、と。

一朝一夕に出来る問題でもないし、自治体を批判して直ちにどうにかなる話でもない

これは私の懺悔です。

繰り返しになりますが、私は、今でも、外国人のマナーの悪さを取り上げる言い方は適切ではないと思っています。
ただ、このご指摘にもあるとおり、そのような考えが出るのは決して不自然なことではない。ここは私はブーメランに陥っています。

そういう声が出ることは無理もないこと。
例え適切でないとしても、やたらに言うのはどうなんや、という指摘は、その通りに思えます。
短気が過ぎる、みっともない発言であったように感じています。

特に、本件は、自治体の職員の方には大変な苦労をされたものと容易に想像できます。彼らは、イベントを成功させたいという任務と願望の一方、町民からは様々な苦情を受ける立場にある。そのような狭間で書かれた町民向けの文章であることは理解しなければならなかったと感じています。
非常にクリアかつ説得力のあるご指摘だと思います。

このような問題への対応、感覚の違いを埋めるというのは、一朝一夕ではできることではない。また、自治体だけが変わって/自治体を批判して変えさせて直ちにどうにかなる問題ではない。

ただし、この辺をきちんとフォロー出来ないまま国際大会を開くことには、どうしてもリスクが残る・・・

とはいえ・・・

ここまで書いた上での感想ですが、このような問題が一朝一夕に解決できないということは、うかつに地元負担の大きい国際大会を地方で開くことにはリスクが伴うということにほかなりません。

十分なケアが来場者・現地住人の双方に出来ない結果、負担と不満ばかりが残る。そこで上記のような言い回し=見込み客である外国人に向けての非難が吹き出すと、他への悪影響が大きい。

結局のところ、このような噴出が不可避なのであれば、最初に私が述べた「やめた方がいいんじゃないか」というのは、回り回って、未だに私の中では相応の説得力を有しています。多くの人が不幸になってしまうので。

皆さんはいかがお考えでしょうか。