さて、ようやくですが、今回のアジア選手権の話。
話の発端は、女子ロードの選手選考において、当初選考が覆され、與那嶺恵理選手が選ばれたということから。
與那嶺選手は日本チャンピオンを競る選手ですし、当初選考で選ばれていないこと自体が不思議ではありましたが、「あれ」と思ったのは、そこではなく。
なんとなく雰囲気は感じていましたが、事後的に分かったのが以下のツイート。
このコースで萩原選手が勝つためには、
恵理さんが必要。
それは誰もが理解していること。
しかし、コーチが率先してはしごを外す。
その恐怖政治に対して、誰が意見するの?
弁護士を使い、抗議を行い
選考されたけど。
余りにやばいよ。
ガバナンスが全く働いていない。
— 武井きょうすけ (@takeikyosuke) 2016, 1月 23
このようなプロセスがあること自体は私はもっともだと思っており、むしろこのルートが機能すること自体は、長期的には意味があると思っています。思っていますが、気になったのは、このような情報が、選手本人よりその「師匠」にあたる人物から質量共に圧倒的に発信されていることでした。
助力者が機能するためには、助力者が目立ってはならない
前回の記事にあるとおり、助力者が本当に信頼を得るためには、助力者の利益が本人の利益に沿っていなくてはなりません。
そして、スポーツにおいて、喝采を浴びるべきは、どこまでいっても本人。スポーツの価値は、厳しい努力をし、勝負を行う、選手本人が体現するもの。
助力者は、あくまで陰に徹し、その陰に徹したことこそが評価されるべきもの。見ている人は見ていますし、それでよい。
もちろん、相応の報酬は受け取るべきものですし(成功報酬なら選手の利益とalignできます)、最終的に選手の評価が個人の評価に繋がるのは当然のこと。完全な自己利益の排除は不可能です。
しかし、そうであっても、可能な限り自己の利益を実質的かつ外形的にも排除する(李下に冠を正さず)ことが、プロに求められることではないか。
僕はやりたくても、出来ないんだよ。
恵理さんとパーソナルコーチの契約を結んでいるから。
僕は戦う選手すべてが輝いて、
最高の厳しいレースの中で
日本が優勝してほしかった。
それだけだよ。
だからさ。
色々攻撃されても、
弊社の雇用選手を派遣したんだよ。
無償で。死ぬ覚悟で。
— 武井きょうすけ (@takeikyosuke) 2016, 1月 23
そうなんですよね、雇用選手なんです。師弟というだけに留まらず、自己の商売(自転車店)の看板をしょって走っている。
そのような状況下で、スポンサーサイドが目立つというのは、何を推測させるか。
スポンサーの利益がその行動に織り込まれていないか。コーチの情報発信が強烈な印象を与えることは、本当に本人の利益だけなのか。
與那嶺選手は素晴らしい才能を持っていると思います。が、眺めた限り、コーチによる一連の発言は、必ずしも選手のためになっていないようにも思えます。
むしろ、コーチとしての自己利益がそこに入ってはいないか。
タクティクスは分かりません。また、競技団体が正しいかも分かりません。
しかし、Fiduciaryという視点でいえば、私は、與那嶺選手の「師匠」が、プロとしてもう少し慎重な行動が取れたのではないか、と感じてしまったのです。
愛するからこそ手放す勇気
親子関係だけでなく、師弟関係においても、ある段階で、必ず親離れが必要になります。
「愛」という言葉の定義はそれだけで人類の歴史を書ける話ではありますが、コンパクトに言えば、そこには必ず自己利益がある。
親子であれ、師弟であれ、子や弟子の自由な発展という視点からは、親や師匠の「個人的なコンタクトを保ちたい」、あるいは「影響力を行使したい」という思いが必ずどこかで利益相反として吹き出してきます。
そういう濃密な関係でなくても、報酬が取れるのであれば、なるべく長く手元においておきたい。
個人的な体験で恐縮ですが、よく言われたのが、
- 「自分が手に負えないことを、報酬ほしさで手元に置くな」
- 「できないことはできないと言え」
これは全てのプロフェッショナルに共通する倫理のように思えます。
この問題は自分の力量を超える。しかし、この人は個人的に私を信頼している。他人に紹介するより、その信頼があるのだから、私がなんとかしよう。
これは、一見して美しく見えます。しかし、クライアントの利益からすれば、やはりネガティブ。
そこは自分の利益をひっこめても、「すいません、他の人をあたってください」そして、可能であれば「●●さんが適任です」というのがプロの役割。
親心、師匠心からは、「私がなんとか」と思うのは心情的に理解できます。そういう意味で、與那嶺選手のコーチは、本当に熱い、いい人なんだと思います。弟子のことを考えているのだと思います。
共感はできます。
が、プロとしてどうかは、ちょっと分かりません。
愛するからこそ、どこかで手放す勇気が必要。それができずにしがみつくと、必ず利益相反が生じ、本人の発展を阻害する可能性がある。
誰に任せるのか/囲い込みではなく、独立したアドバイザーによる自主的な判断を
とはいえ、今回の件は、特定の誰かを叩いて終わる話ではないように思えます。
「師匠」がどこかでFiduciaryを貫徹できなくなるのであれば、誰かに任せる必要がある。
ただ、それが我が国にあるのか?ないとすれば、他国にお願いするルートがあるのか?
萩原選手はWiggle Hondaにポストがあります。與那嶺選手は(今回の件がどう評価されるかは分かりませんが)何らかのルートはないのでしょうか。
今後のキャリアについて、コーチとは別の、利益相反のないアドバイザーは與那嶺選手にいないのでしょうか。
テラオ マキさんは萩原麻由子選手のエージェントとしてWiggle Hondaと交渉というかWiggle Hondaと萩原選手をつないだ人でもありますね。
— Alley Cat ØωØ (@relations72) 2016, 1月 27
Independent Advisorが重要なことは、繰り返し述べています。これは別に私一人の考えというわけではなく、EUのキャピタル・マーケット規制において中心的な役割を果たす概念であることは、説明した通り。
今後の日本のサイクルスポーツが発展するためには、このような役割を担うプロフェッショナルの層の充実が必要。自前で調達できないのであれば、外部からでも買ってくるべし。
。。。それができないという経済状況なのであれば、それはある種やむを得ないとはおもいます。
でも、草の根のコーチレベルで(教育業界でいえば、小学校教師レベルで)、少しでもFiduciaryの概念が広がれば、少しは変わってくるのではないか?と思ったのでした。
今後の日本のサイクルスポーツが発展するためには、このような役割を担うプロフェッショナルの層の充実が必要。自前で調達できないのであれば、外部からでも買ってくるべし。
。。。それができないという経済状況なのであれば、それはある種やむを得ないとはおもいます。
でも、草の根のコーチレベルで(教育業界でいえば、小学校教師レベルで)、少しでもFiduciaryの概念が広がれば、少しは変わってくるのではないか?と思ったのでした。
かわいい子には旅をさせよ-利益相反のない助言者の助けによって
まとめます。
かわいい子には旅をさせよ、という言葉には、Fiduciaryの本質がつまっています。いかに親しく、いかに愛していても、どこかで手離れする勇気をもたなければ、その人の足を引っ張る結果になる。その愛ゆえに。
そして、それを実現するためには、任せる相手=利益相反がない助言者というプロフェッショナルの層を形成する必要がある。
日本においては、不動産業界を典型に、利益相反が横行しています。
買い手・売り手の双方から手数料を取り、双方の利益の「間をとって」(どっちの味方もせず)行動する。そして、消費者サイドも、「独自に雇うより手数料が安い」と、うわべだけの安値に釣られて、それを受け入れる傾向にあります。
Independent Advisorを雇うコストは、一見すると高額に見えますが、それによって得られる利益は、利益相反を内包したAgentを雇うより大きいことが多い。
UKの社会は、この真理をよく理解している。それが体現されたのが、British CyclingとTeam Skyの成功なのではないか、というのが、私の理解です。
いかがでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿