2016/01/04

Sir Dave Brailsfordという人 - 選手としての個人的経験に依拠しない専業マネージャー

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「帝国」とも称されるTeam SkyのジェネラルマネージャーSir "Dave" Bralsford氏。Team Skyの華々しい活躍はよく知られる反面、この人がどういう人なのかは、日本ではあまり知る機会がなかった。

UKに住むようになって、Wiggins, CavendishそしてFroomeといったスタープレイヤーもさることながら、このBrailsford氏こそがこの国の大躍進の屋台骨を担っていることを様々なメディアで目にするようになった。

サイクリストと個人的キャリア<プロフェッショナルマネージャーとしてのキャリア

まずこの人のキャリアをざっと見てみる。ネタ元はおなじみWikipedia
  • 23歳までフランスのスポンサードアマチュアで選手として活動していたものの、記録されるような結果はなくUKに帰国、スポーツサイエンスと心理学、そしてMBAの学位を取得。
  • その後は自転車の商社で暫く働くも、1997年にBritish Cyclingが宝くじ(スポーツくじ)を導入する際にそこに雇用され、ロンドンオリンピックに到る選手育成プログラムを手がける。
  • 2010年からはチームスカイの監督となる。
  • オリンピックへの貢献をたたえられ、ナイトの称号を授与されている。
という流れ。

まず印象的なのが、この人がサイクリストしての個人的キャリアをほとんど有さない点である。

一般的にも、名選手と名監督は異なると言われる。しかしながら、日本における実感として-例えばプロ野球などを例に取れば-やはり選手として一定のキャリアがなければそもそも監督としての前提を欠くと見られている節がある。

次に、そして最も重要に思われるのが、この人の監督としてのリソースが、スポーツ科学と経営学という専門教育に由来している点である。

スポーツ科学、心理学について、監督業に有用なのは言うまでもない。
しかし経営学である。日本のスポーツ監督、あるいは競技団体のマネージャーに、この点について専門的な知見を有している人がどれだけいるのだろうか。

この点について少し考えてみたい。

経営学=リソースの配分

経営学。単純化して言ってしまえば、組織にリソースを調達し、それをどう配分して活用するか。これを最適化する学問といってしまえばおおよそ間違いではないように思われる。

そして、このリソースは、別に自前である必要はない。自己資本でもいいし、他人資本でもよい。内製してもよいし、外部から調達してもよい。

最適な人材/手段を、いかに柔軟に調達するか。

ここには自前主義というのは存在し得ない。いかに選手として有用な人間であっても、それが監督の前提であるということはない。少なくとも自転車の世界で彼自身が実証した。監督は選手コミュニティの外から調達してきて構わないのである。

また、サイクリストの経験に基づく独自のノウハウはExclusive、決定的な地位を有しない。常にこの経験は他のジャンルの専門家による客観的な検証に晒される。
そして、有効とあれば他のジャンルの専門的な知見を大胆に取り入れる。
その知見は、一見無視できるような小さなメリットのために贅沢に活用される。所謂Marginal Gain Approach。

この手法を駆使して、彼は20年かけてUKを世界有数の自転車競技大国に育て上げた。長いとみるか、短いとみるか。

翻って我が国を見ると、近年では、選手として偉大な結果を残した競輪選手が監督から「解任」されたとして、JCFとの訴訟に発展した事案がある(和解済み・リンクは監督側代理人の説明)。

私は本件の内実について具体的な知見はないが、この「解任」を巡る議論-契約上の権利義務関係とは別に-において、経営的知見に基づくマネージメントにかかる議論はあったのだろうか。少なくとも監督サイドにそのような専門的キャリアを得た形跡はないようである。

断っておくが、以上は、経験というキャリアが無用という趣旨ではない。

しかし、総監督の資質とは関係ないのもまた確かだろう。

経験、あるいは実績といった要素は、必要な場面において総監督が調達する客体である。この要素が総監督の資質を決めるわけではないし、むしろこれが前提となってしまうことは、適切なリソース配分のための手を自ら縛っていることになる。

専門へのTrustはあるか

Brailsford氏のような総監督が活躍するためには何が必要なのだろうか。

そこに必要なのは専門への信頼-Trustではなかろうか。

Trust 一般に信頼と訳されるが、これは単なる感情的なものに留まらず、UKでは法的な意味を有する伝統ある言葉。法的な意味では、信託と呼ばれる。UKではこれが社会の背骨にあり、アダムスミスの分業論の伝統と相まって、専門化が進んでいる。

専門家=受託者(Trustee)は、委託者(Settler)から委託を受け、受益者(Beneficiary)のためにその全力を尽くす。受託者である専門家は、その専門的な能力を、受益者の利益だけのため自己の利益を排除して遂行する。そのような受託者に、委託者/受益者は信頼して任せる。細かい指図はしない。

しかし、そのような高度の裁量を有する受託者は、当然ながらふさわしい専門性を有さなければならない。そして、任された仕事が高度なプロジェクトになればなるほど、その専門性とは、リソース=他人の知見 を調達し、適切に割り当てるという作業に特化する必要がある。

言ってしまえばプロ経営者である。国家プロジェクトであるスポーツ養成に必要なのはこのような信託されたプロ経営者なのではないか。

翻って見るに、我が国にはこのような意味での信頼はあまり見られない。一見、専門性を有する人材は存在し、それは尊重されているように見えるが、そこに信じて任せるにはなかなか到らない。というより、その信じるための前提が理解されていないのだ。

上記のように、専門的知見よりも経験実績、というのも専門への信頼がないことの1つの現れだろうが、それは表層に過ぎないと思っている。
私にとってこれが最も典型的に現れたのは、オリンピックのロゴ騒動。

この騒動で最も問題だったのは、パクリ疑惑でもなければ、「耳打ち」疑惑でもない。究極的には、複数の立場を兼任する人物を配置し、それぞれの利益が対立する状況で仕事をさせていたその構造自体が問題だったと考えている。

上記の通り、Trustの信頼を支える構造には、2つの要素がある。
  • 受益者の利益のために
  • 自己の利益を排除する
ここで決定的なのは後者だ。前者をベストな形で達成するためには、後者は徹底的に排除されなければならない。前者の犠牲の下に後者を手にいれる、あるいは前者と後者の利益を「調整」するということはそもそも入り口からしてNGなのだ。そのような可能性を生じさせる状況はスタート時点で排除しなければならない。

今回のオリンピックロゴ騒動はどうか。事務局としての立場、広告代理店から派遣された立場、そしてロゴ選考委員としての立場を兼ねていた人物が存在した。

いかに優秀な人でも、このような立場を兼ねた場合、受益者のベストインタレストを追及することは意識的のみならず無意識のうちに阻害される。信託の考えは、このような経験則にたっている。そして、案の定そうなった。「たまたま」最終的に選ばれた作品の選択には影響がなかったかもしれないが。

我が国の国家プロジェクトにおいて、このような体制が容認されていること自体、信頼の前提を欠いているというのが、私の考えだ。

我が国においてプロフェッショナルのスポーツマネージャーが登場するのは、もう少し時間がかかりそうに感じている。

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