2015/04/14

問題に取り組もう、責任分担はその後だ/サイクリストの「正義」への固執は自滅を招く

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古典的名著 ハーバード流交渉術 に次のような下りがあります。

 「利害に着目しろ」「立場にこだわるな」

利害が対立する交渉相手が存在する場合、双方の利益を増進する方法に着目すべきである。どちらに責任がある/どちらが譲るといった議論から始めると、双方にとって望ましい結論からは遠ざかる。

近頃、次のような記事に接しました。
ボルボ発の安全対策に自転車乗りが猛反発 自転車も服も光らせる反射塗料は“責任転嫁”?

筆者はロンドン在住で、これまでも、
ヘルメット着用を義務づけることは自転車の社会的な効用を下げるものであり反対が多いという議論を紹介されてきた方です。
ヘルメットはかぶるべきか? BBCテレビ番組がきっかけで再燃した是非論
このような問題を考える際に忘れるべきではないのは、事故等によって生じたコストは、自動車・自転車などの道路利用者だけで完結するのではなく、トータルで社会的な負担-端的には納税者の負担-になるということです。

このような政策は、決まった解があるわけではない


このような問題を検討する上での基本的な考え方は、ロナルド・コース(wikipedia)がノーベル賞を獲得した研究の1つである
Coase RH, ‘Problem of Social Cost, The’ (1960) 3 Journal of Law & Economics 1
で提示されています。私自身は詳細を論じる力を有しませんが、要するに
  • 社会全体の利益を増進する(事故等のコストを削減することを含む)方策を考えるべき
  • 取引コストがない場合には、事故が生じた場合の責任の帰属又は当初の予防措置に関する負担の取決めに関わらず、アクター間の取引によって利益を最大化する適切な負担バランスが達成される
  • 取引コストがある(現実的な)場合にはこれらの取決め次第によって利益の最大化が図られない結果がある。
  • この問題はReciprocalな性質を有する。例えば予防措置の負担を一方に負わせることによって特定の問題を除去して利益を増進させた時には、どこかで何らかの利益の減少が生じている。
  • いかなる場合でも正しい負担の分配はなく、双方の利益状況に応じて、適切な負担の設定は変わりうる。
という論旨。

一言で言えば、誰がコストを負担するかについて決まった解はない。例えば、当事者の主観的な負担感や、負担する財力等によってこれらの分配は変わってくるという内容と理解しています。

例えば、上記のヘルメット着用義務に関する議論も、
ヘルメットという予防措置は、思ったより効果が低い割りに負担感が大きいので、却って社会的なメリットが増進されない「場合もある」
という限りでは正しいと考えられます。
しかし、これは常に正しいとは限りません。
例えば、個別の調査の数値の微妙な意味付けや、社会の受け止め方の違い(主観的な負担感)、あるいは全体のメリットを考慮するにあたって組み入れるファクターなどの次第で、様々な結論がありうるように思えます。

このように、ある政策を考える上では、あくまで個別社会のデータに即して、トータル-自動車、自転車、歩行者、ひいては社会全体の(利益-負担)-が増えるかどうかを検討する必要があります。

ところが、上記記事は、途中から、そもそも自転車が負担を負わず、自動車が負担するのが”正義”だという議論を紹介することにフォーカスしているように読めます。
「ヘルメットをかぶっていなかったサイクリストにも責任はある」と解釈するのは、ひどい考え違い 
ただここで手放しで喜んでスプレーを自分に吹き付けるようでは正義が負けてしまう。
しかし、このような論調は、元々の議論

場合によってはヘルメットを被ることが社会的な損失になり得る

という、それ自体は正当な議論からも、大きく逸脱するように思えます。

場合によっては-例えば社会的にヘルメットの負担が小さいと考えられる場合には-ヘルメットを被るという責任を自転車に負わせることもまた正当化され得ます。もっとも、繰り返しになりますが、これは様々なファクターの組み合わせ次第であり、一律には言えません。イギリスと日本が違うということだってあり得ます。

少なくとも、ヘルメットの義務づけが「ひどい考え違い」とは、そう簡単には言えないことです。

「正義」に固執する議論は、かえってサイクリストの望む世界から遠ざかる結果となりかねない

私は、個別の議論の結論にはあまりこだわりはありません。それを論じる力は私にはありません。

私が心配するのは、サイクリスト側からこのような「正義」を振りかざすスタイルの議論を行うことは、冷静なメリットベースの議論の説得力をおとしめることにすら繋がりかねないという点です。

例えば、少なくとも現行の道路交通法(日本)では、ヘルメット装着は義務化されていません。
努力義務がある子供に関しても、過失相殺でも考慮されないことになっています。これは、現状の日本社会では、負担を自転車に負わせることはコストに比してメリットは小さいかマイナスであると考えられていると見ることもできるでしょう。

しかし、対照的に、前照灯と尾灯又は後方反射板は自転車側の義務とされています。このような負担は自転車に負わせるべきだと考えられているということです。

本件で問題になった反射素材についても、様々な考え方があるでしょう。
現時点では極めて先端的なものであり、様々な制約・負担もあるでしょうから、直ちに義務づけに繋がったり、自転車側の過失相殺の根拠とされたりすることはないと思われます。

しかし、これが普及して負担感が相当に下がれば、現状の反射板のような扱いになる(例えば自転車の表面塗装にこれを用いる必要が安全基準として求められ、それを怠った場合は過失相殺で考慮される)ことだってあり得ないとは言えません。

結果として、そのような少々の負担で、事故が相当に減るのであれば、それは歓迎すべきことです。

冒頭に戻ります。この問題における「正義」は、事故を効率的に減らすことであり、自転車が自動車サイド、あるいは納税者の負担のもとにノーコストノーリスクを謳歌することではありません。

本件のようなイノベーションを「自転車が事故防止を負担すべきだ」「正義でない」と頭から拒否し、例えば自動車側からの防護を完備した道路を要求するといった納税者の高い負担が生じる政策「だけ」を要求することは、およそ正当化され得ないと思います。

そのような戦略を政治的に行使することは可能ですが、そのようなスタイルは、結果としてサイクリストにとって望ましい結論からは遠ざかることになるのではないかと心配しています。

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