2017/06/13

私たちが欲しいのは「今と未来の自転車乗りの権利を考える」インフラ(おまけ)

#aminocyclo: 個別論点の地上戦をやってるときに、変えること自体を旗印にすることのあやうさ: 経産省の例のペーパーは私の目からは自転車の車道通行の発想と通底するものがあり、現在の役所の発想をよく示しているように思いました 経産省「次官・若手ペーパー」に対する元同僚からの応答 - HIROKIM BLOG / 望月優大の日記 https://t.co/SrVw3iE...

これまで、2回にわけて、Frameに掲載された自活研内海さんの記事に対する私の考えを書いてみたのですが、ちょっと前に、このような記事を書いていたことを思い出しました。

「日本で一番自転車乗りの権利を考える*男が、再びバスと自転車について考えました」

元々、上の記事は5月22日に書いたもので、6月9日に公開された内海さんの記事にだいぶ先立つものです。従って、当然、当該記事自体を意識したわけではありません。

しかし、最近の自転車インフラに対するアプローチは、

  • 個別論点の損得よりも、変えることだけを旗印にしている
  • 変えるときにはローハンギンフグルーツから取りにいく
  • 結果、一番立場の弱いものから損をするようになっていく危険性がある
という点で、例の経産省ペーパーの考え方と似ているなと、前々から思っていました。
私自身の経験から言えそうなのは、個別の議論よりも変えること自体を上位におく場合、とりあえずローハンギングフルーツをもぎ取る戦術に流れるのが自然であるように思われます。まずは抵抗が弱そうなところから叩いていく。言い換えれば、便益を踏まえた優先順位付けより、まずは費用だけをみて、サクサクっと終わらせることを優先する。(中略)
しかし、この方法を、複数の拮抗する利害の順位調整それ自体が問題になり、かつ、その順位調整を本来の機能として期待されている国の中の人があっさりと持ち出すのは、ちょっとなあ、と思うのです。(中略)
そして、この「非連続的な転換」を旗印に「ローハンギングフルーツ」を取るという戦術を適用すると、まず抵抗が弱いところから対応されていく。
結果、最も抵抗力が強いところが手を付けられずに残ってしまう。
もっとも、繰り返しですが、この考えは、別に内海さんの記事をみて思った訳ではありまん。しかし、今回の内海さんの記事は、まさにこのロジックを堂々と掲げるものでした。
ほんの10年前まで自転車は歩道通行が当たり前だった。お巡りさんたちも現場で「おーい。そこの自転車、歩道へ上がんなさい」と指導していたくらいだからドライバーの中には、いまだに「自転車は歩道が原則」だと思い込んでいる人が少なからずいる。のみならず2020年に向けて東京に大量の外国人観光客がやってくるという恐るべき事態が控えている。ご承知の通り、お隣の韓国も中国も台湾もロシアもアメリカも道路は自転車を含めて全部右側通行。できるだけ混乱は避けたい。
さあ、あなたならどうする? 手っ取り早く描ける分だけでも描いてしまおうとするのではないか。
厳密に言えば、今回のガイドラインにかかる整備において、ローハンギングフルーツから取るというアプローチは、本当にガイドラインに忠実なのであれば、私もあまり問題は感じません。

なぜなら、今回のガイドラインにおいては、ナビマークを整備しただけの部分については、歩道通行をDiscourageする趣旨のものとはされていないからです。ガイドラインも、明確に、これは現に車道を通行する者のためのもの、と述べています。したがって、本来の趣旨の通り、ナビマークが現在の歩道通行+で用いられるのであれば、自転車乗りにとっては選択肢が増えるものだからです。

しかし、内海さんは、少なくともナビマークの趣旨をこのように限定的に解する立場ではなさそうです。

なぜなら、当該記事において、
現時点で市民の幸せレベル最大公約数として自転車は歩道か車道か。高齢者が歩いて暮らせる街にするためにも自転車に歩道を走らせるのは、いい加減やめにしたい。
と述べ、明確に自転車の歩道通行は廃止するべきであるという立場を打ち出されているほか、ナビマークの利用について、
「自転車は原則として車道の左側を走る」というコンセンサスを改めて作りに行っているフェーズ
 における手法と位置づけられているからです。
これは、本来のガイドラインが想定したナビマークの趣旨からは逸脱しています。

このように、ナビマークが歩道通行をDiscourageするツールとして使われるのであれば、それは、純粋なプラスではありません。これにより、自転車の利用のハードルが上がり、利用が減るという副作用が生じ得ます。そして、この利用減は、子どもや高齢者といった弱い立場の人や、それを守るべき親などから始まるでしょう。

そういう性質のものを、あっさりと「ローハンギングフルーツ」の戦術で行っていくのには、やはりもう少し躊躇があってもよいように思います。

出来ることから、やる。

これは一般的にはとても有用。何かを動かすためには、必要なことです。

しかし、失われるものに思いをはせて、もう少し立ち止まって考えてもいいように思います。

2017/06/11

私たちが欲しいのは「今と未来の自転車乗りの権利を考える」インフラ(2)

#aminocyclo: 私たちが欲しいのは「今と未来の自転車乗りの権利を考える」インフラ(1):

前回、自転車インフラを考える上で、

  • 客観的な安全性と
  • 主観的な安心感
という2つの要素があり、これらは一定の科学的な方法により検証が可能である、ということを申し上げました。

主観的な安心感を欠く場合、利用が減る

このうち、主観的な安全性の観点からは、現在のガイドラインが誘導を試みている車道上の分離なしインフラは、安心して利用するのは難しいというのは、あんまり異論がないように思われます。

それにより生じることは、こちらの記事で以前も述べました。


「車道通行をインフラで誘導することで歩道通行が消滅した理想の世界」の損得


安心感というのは相対的な問題であり、どこかでラインを引く必要があります。従って、いつでもどこでも最高を目指せ、という話にはなり得ません。

しかし、議論の過程において、現状と比べてどうか、ということは、利用者がどう動くかに直結します。

自転車利用の総量が減る。それにより、社会的な幸せの総量が減る。具体的に言えば、
  • 子どもの送り迎えのために、自動車を買ったり、移住するなど、自転車が安心に使えれば不要であった出費を余儀なくされる
  • 親の心配により、自転車での通学を中高生が許されなくなり、進学の選択肢が狭まる
これらに加えて、
  • 自動車利用の増加による道路の渋滞
    ロンドンでは、子どもの送り迎えによる渋滞が社会問題になっています
  • あるいは、運動不足による肥満の増加
など、様々な問題が連鎖的に生じることになるでしょう。

前回記事で指摘した通り、「自転車は車道」が確立したコンセンサスであったUKにおいて、自転車利用は日本と比べてとても低いレベルに留まっていました。

(参考)世界各都市における「自転車の交通分担率」の比較 サイクルプラス「あしたのプラットフォーム」

客観的な安全性を欠く場合、人が死ぬ

こちらについては敢えて説明するまでもないでしょう。

安全性もまた相対的な問題であり、上記同様、生じる損失との関係でレベルを決める問題になります。

損失との関係でどんだけ金を突っ込むか

以上の
  • 利用減による損
  • 人が死ぬことによる損
との関係で、どの程度お金を投資して、プロテクションを用意するか。
これが議論の本道であり、少なくとも、ガイドラインの議論も、この建前から大幅に逸脱することはこれまでなかったように思います。

内海さんのコメントは、議論の土俵をひっくり返す

先日も在京キー局の夕方ニュース番組に出演した際に「ナビマークは危険か危険でないか」という切り口でコメントを求められたけれども、そもそもナビマークで全て解決できるなんて思っていないし、革命は始まったばかりだから、今判断するのは時期尚早と述べた。なんて書くとまた「危険を承知でどうして推進するのか」という反論が出そうだが、そこをあえて書くと全ての交通参加者に対して「自転車は原則として車道の左側を走る」というコンセンサスを改めて作りに行っているフェーズだから。
ところが、内海さんのコメントは、この土俵を根本からひっくり返しています。

 前回の記事で書いたとおり、自活研の主要なメンバーが、歩道通行こそ危険という言い方をされていた。そして、そのような方々が、国の会合に入り、現在のガイドラインが出来上がった。

そうすると、利用者から「危険ではないか」という声が上がった。
これに対して、このように返されるのは、いかがでしょうか。

安全性は十分である、というご主張だったのではないでしょうか。コンセンサスのためなら、安全性の点は「さておいて」で済むのでしょうか。

いつか「コンセンサス」を得るまでに何を失うのか

私自身は、このような「コンセンサス」により確かに今車道を走れる人たちに一定のメリットはあるのかなと思っています。ドライバーから邪魔者扱いされるというのはある話であり、それが変わることで、多少楽になることは、実感としてもあり得るように思います。

しかし、安心感や安全性の議論を投げ出してまで得る価値って、なんなのでしょうか。

いつかコンセンサスが得られたって、明日から事故は起こる

まず簡単に分かることとして、コンセンサスが得られたところで、自動車が巨大な破壊力があり、自転車は圧倒的に脆弱である事実は変わりません。

当たり前ですが、自動車が車道を走ることにはコンセンサスがあります。
しかし、追突事故はなくなりません。ただ、軽微な追突事故は、自動車自身のプロテクションのために、多くの場合で被害が緩和されるに過ぎません。

自転車はどうでしょうか。
どんなにいいドライバーだって、小さなミスはします。そして、それは自転車にとっては致命的です。

結局、この問題は、上記の客観的な安全性の議論に戻ってくることになります。いつか得られるコンセンサスによっていつか事故が大幅に減るというのなら、ギリギリ正当化できるでしょう。

その場合でも、将来の命の現在価値と今の命の比較という重い選択をする必要があることになりますが。

そのようなタフな議論抜きに、目の前の安全性はさておいていつの日かのコンセンサスを目指すというのは、なかなか正当化できないように思います。

いつかコンセンサスが得られたって、明日から利用は減る

これは繰り返しになります。コンセンサスが得られた世界において、自転車利用が現状程度に維持されることにはならないでしょう。

具体的には、現在自転車を親子で利用している人たち、通学で利用している人たちの相当数がそれを控えることにより、
  • 日常利用における自転車文化の衰退
  • それによるスポーツ文化の衰退
  • 自転車産業のパイの縮小
  • 運動不足による生活習慣病への影響
といった問題が思い浮かびます。

ちょっと余談ですが、内海さんは、記事の中で
「自転車を環境という文脈で語るべきでない」と先日の講演会でOECDのフィリップ・クリスト氏が語ってくれたが、健康や経済面でメリットがあることを強調して、できるだけワントリップの距離を延ばしたい。
と仰ってますが、ワントリップの距離って、たくさんある指標の1つに過ぎませんよね。1,2キロにも満たないショートトリップだって自転車利用がないと車使う人はごまんといるわけで、それを自転車にシフトさせるだけでも凄いメリットはある。

ショートトリップも含めた様々な利益が大きく損なわれてしまう。

余談ついでなのですが、自転車の日常利用の基盤が破壊されると、自転車産業のパイはさらに減るでしょうし、将来のスポーツ選手も生まれにくくなるでしょう。「今、自分が乗れればいいや」という人にとってはどうでもいいかもしれませんが、次々と人が来てくれなきゃこまる業界の方々にとっては本当にシリアスな問題と思うのですが、どうお考えなのでしょうか。気になります。

これほどまでの犠牲を払って得られるコンセンサスって何なのでしょうか。

結局、将来と今の数字の議論

結局、「コンセンサス」っていう言葉には、何の意味もない。

コンセンサスが得られた未来の損得と、それを目指すことにより今失う何かを比較するほかないのです。

そうすると、数字の議論になります。
将来の安全性、安心感。それによる社会的な損得の比較。

今回の内海さんの記事で頭を抱えてしまったのは、この点にあります。

今の危険性を指摘されたら「それはさておき、将来のコンセンサス」というのは、もはや議論する気が無い、と言明したのにも同様に思えたのです。

為政者じゃなくて今と未来の主権者=自転車乗りのために

今回、なぜこんなことを仰ったのか、そのヒントとなりそうなコメントを内海さんはされています。
ロンドンやニューヨークの事例を知らないわけではないが、知っているなら最初から正解を目指せばいいじゃないかというのは学者の論理だ。為政者のマインドには響かない。物事には順序があると先にも書いた。同じ轍を踏まなくてもいいのにと思うけれども、一足飛びには進めないのもまた事実。
これは、為政者にとって、同じ轍は必要な犠牲だ、と仰っているように読むことができます。

でも、為政者って誰なんでしょうか?我が国の立法権を担う議員は選挙で選ばれます。国民主権の必要条件の1つですね。

仰っていることは、為政者を説得するためには、主権者の少々の犠牲が必要、ということなのでしょうか。

ここは、絶対に違う、と述べたいと思います
これは単に理念の話ではありません。

国会議員は選挙で選ばれる以上、有権者の意識に逆らうことはできません。生活に密着すればするほど。

既に述べた通り、車道通行のコンセンサスが得られた社会において、自転車利用は減るでしょう。

誰から減るといえば、子どもや、それを守る立場にある親です。子どものためにむやみなリスクは取りたくない、安心感のないインフラは使わない、というのは、当たり前のこととのように思えます。そして、子どもの頃に自転車を使う環境になかった人は、将来も使わなくなる可能性が高い。

しかし、現在の自転車利用者の圧倒的多数は、これら「現に車道を走れない人々」。

内海さんの仰るコンセンサスは、現に車道を走れる人にとっては一定の改善効果を生み出すでしょう。

しかし、これが得られた社会は、車道に出られない人たちはそもそも自転車に乗らない社会になりそうです。そして、そのような人たちの子どもたちも、自転車に乗ることは、おそらくないでしょう。

これは大きな損失です。
そういう現に多数を占める人たちの利益を考え、声を吸い上げて行けば、票にめざとい議員は動く。同じ轍を踏むことは必要ないように思います。

今、車道に出られる自転車乗りの権利だけではなく、そうではない人も含めた、今と将来の自転車乗りの権利を考えるインフラとは何か。

そういうお話しが出来れば楽しいなと思うのでした。